第008回 弥生文化、そして、邪馬台国について
第008回 弥生文化、そして、邪馬台国について
0000~0000年の出来事です。
ポイント:
稲作が始まった弥生時代の人々の生活について覚えよう。
その1 弥生文化について
日本に稲作が伝わったのは、紀元前4世紀。
一説には、紀元前10世紀とも言われています。
一体、誰が伝えたのでしょう。
そう、おもに朝鮮半島から日本に移り住んだ人々が伝えたのです。
日本では、九州北部から東日本まで稲作が広がっていきました。
・このころの人々
もちろん、水田のそばにむらをつくって、
集団でくらしていました。
・このころの家
たて穴住居です。その近くには、高床倉庫がつくられ、
とれたお米を貯蔵しておいたのです。
なんで、高床?って思うかもしれませんが、
ネズミや湿気を防ぐためです。
・金属器
稲作とともに日本にこのころ(紀元前4世紀ごろ)伝えられました。
鉄器や青銅器です。
銅剣、銅矛、銅鏡、銅鐸:
これらは日本ではお祭りのための宝物として用いられました。
鉄器:
武器、農具、船をつくる工具として
用いられたのです。
・弥生土器
やや高温で焼かれた赤褐色の薄手でかための土器が
作られるようになりました。
あの有名な弥生土器ですね。
この土器の特徴をしっかり覚えておきましょう。
・弥生文化、そして、弥生時代
このころの文化を弥生文化、この時代を弥生時代といいます。
弥生時代の遺跡といえば、登呂遺跡 吉野ヶ里遺跡ですね。
写真で確認して、おきましょう。
その2 国々の誕生
稲作が日本に伝わったことにより、
日本の社会も変化します。
まず、小さな国々ができます。
そして、有力者である豪族や王が出現しました。
彼らは、その地域の人々を支配するようになっていったのです。
おとなり、中国の歴史書には当時の日本の紹介があります。
倭(日本)には、100余りの国があり、
楽浪郡を通じて漢に使者を送った国もありました。『漢書より』
1世紀なかば、倭の奴国の王が後漢に使者を送り、
皇帝から金印を授けられました。『後漢書より』
この倭の奴国とは、福岡平野の地域です。
しかも、江戸時代に福岡県志賀島で発見された金印は
後漢書に書かれた時代のものと考えられています。
その金印には、『漢委奴国王』と刻まれていました。
だんだん、いろんなキーワードがでてきましたね。
整理して覚えておきましょう。
『出てきたキーワード』
金印
1世紀なかば
漢書
後漢書などなど
倭、委、王、豪族
その3 『邪馬台国』の女王
今度はいきなり、
邪馬台国について、でてきちゃいました。
3世紀のおとなり中国はというと、
後漢から三国時代(魏、呉、蜀)に変わっていました。
日本では、邪馬台国という国があり、魏に朝貢をしていたのです。
中国の歴史書には、次のようにこのころの日本について説明されています。
邪馬台国の女王卑弥呼が、倭の30余りの小さな国々を従えていました。
その国々には、身分のちがいがありました。
卑弥呼は魏に使いをやり、皇
帝から『親魏倭王』という称号と金印を授けられ、
銅鏡100余りのおくり物を受けました。
では、邪馬台国は日本のどこに存在したのでしょうか。
いまだにわかっていません。
次の2つの説が有力なのでご紹介しておきます。
・近畿(大和、奈良県)説
・九州説
この2つの説が有力です。
ちなみに、近畿に邪馬台国があったとすると、
のちの大和政権につながる勢力であったと考えた方が自然ですよね。
その4 まとめ
では、そろそろまとめましょう。
その前に、、、問題です。
稲作が朝鮮半島から日本の九州地方に伝わり、東日本にまで広がりました。
このことは、日本の社会にどのような変化をもたらせたのでしょうか。
じぶんなりにまとめて、
理解を深めましょう。
答えは、稲作がはじまり、食料をたくわえる量に
さまざなむらにより差がでてきました。
すると、力のあるむらは、戦争を起こし、
別なむらの食料を奪いはじめました。
こうしているうちに、勝ったむらは、
負けたむらを従えるようになっていったのです。
むらがしだいに大きくなり、小さな国ができたのです。
一方、戦争を指揮していた指導者は、
やがて人々を支配する豪族や王となり、
小さな出来上がった国をまとめ始めたのです。
『稲作』や『金属器』が日本に伝わりました。
どこからでしたか?そして、いつ頃?
そう、大陸、つまりおもに『朝鮮半島』から、
紀元前4世紀ごろ、でしたね。
縄文土器とはちょっとちがう『弥生土器』も作られるようになりました。
その特徴、おぼえていますか。
やや高温で焼かれ
赤褐色をした
薄手で
かための弥生土器です。
では、縄文土器は? 思い出してください。
弥生時代までは、ただ、集落をつくっての生活でした。
というのも、縄文時代には『稲作』が日本に伝わっていなかったため、
遊牧民族のように、獲物や木の実がなくなれば、
あっちこっち移動をする生活していましたから。
それが、定住するようになったのです。
それは、『稲作』のおかげですね。
そして、高床倉庫という貯蔵施設もつくられ、
人々は集団で定住するようになったのです。
そして、さまざな争いから『指導者』が生まれました。
そう、そう、有力者として豪族が、王の出現です。
こういった人々が国をつくりはじめたのです。
このころの日本の様子が中国の歴史書に紹介されていましたね。
『漢書』
『後漢書』
『魏志倭人伝』
内容もつかんでおきましょう。
国が形成された日本には、
女王卑弥呼を従えた邪馬台国という国がありました。
内容は、『魏志倭人伝』に書かれていましたね。
ところが、この邪馬台国どこにあったかわからないんです。
九州にあったとする説、そして、近畿にあったと説の2つがあることを
頭に入れておいてくださいね。
そして、もし、邪馬台国が近畿にあったとすると、
もしかしたら、
邪馬台国=大和朝廷
という公式が成り立つといわれています。
じぶんなりにまとめて、理解を深めましょう。
それでは、みなさん!
次回まで、さようなら。